妙行寺の歴史

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教如上人

 当寺は往昔天台宗盧原道場と称し、創建以来世々博多市街の中心部に位置していた。文明5年時の住僧良言が、本願寺蓮如上人に帰依して真宗となり、妙行寺の寺号を授与された。当寺では、改宗した良言を以て中興第一世住職としている。爾来真宗の教法が次第に九州各地に流布興隆して、末寺や門徒の数も次第に増加の傾向を示してきた。この頃当寺も、堂宇も改築をするなど諸堂の整備や拡張工事し終わって間もなく、延徳2年に本願寺懸所となり、本山よりは輪番僧が派遣されて来住し末寺の総支配するようになり、それが数十年程継続された。然るに永禄の末年頃に、竜造寺と大友の両軍が博多において会戦し、また戦乱も相次いで起こったために市街の大半は焦土と化し壊滅状態に陥った。当寺もまた類焼の厄災に遭遇した。この折当寺勤務の僧願念が、乱軍猛火の中を冒し本尊を救出して、自坊に急遽避難した。戦火ようやく一応収拾したので、願念は旧跡に仮本堂を建立して奉遷した。また更に、肥後菊池一族の僧仲言を請うて住持となし、両人が一致協力し万難を排して当寺の復興再建に励んだ。 ちょうどこの時機に、本山より「博多十一人衆」と或は「妙行寺下老分」へとして、門徒に対する復興再建激励の触状を拝受している。

教如堂

 仲言に嫡子がなかったので、当国高祖城主原田氏の一門である笠大炊之助興良の末子彦兵衛を養って法嗣となし、従善と称して当寺の第三世を継承した。石山本願寺法難の際に、配下の門侶を率いて馳せ上り、善戦防戦によく従い大いに勲功を立てたので、顕如上人より特に感状を授与された。

 文禄元年豊臣秀吉朝鮮征伐の軍を起し、肥前名護屋に築城して駐屯していたとき、新門跡教如上人が陣中見舞のため、下向せられる旨の先触状を、当寺第四世教善は配下の数多の門侶を率いて糟屋郡団ノ原まで御出迎いに行った。上人一行は教善の御先導により、一先ず宿坊である当寺へ御滞在された。更に教善は、名護屋城への道中警固の任を仰せつけられたので、数多の門侶を引き連れて上人に属従し、名護屋城へ向かった。

 上人豊臣秀吉との謁見も首尾良く終わったが、其の間における教善の細心の身辺警固、周到な挙措、また諸般の事務の敏速な対応、かつまた其の処置の適宜なことにいたく認め褒められて、上人御帰山に際して旧名浄善を上人の尊名一字を賜り教善と改め、また上人九字名号及び半折一行を認められ、五条袈裟一領に添えられて格別の賞賜に与った。

本願寺の東西分派に当り、当寺は教如上人との浅からざる縁故を以て教如上人創建の本願寺に属することになった。

 慶長5年12月、黒田長政公入国以来、当寺は東派の触頭を命ぜられその職務を果たして来た。明治4年11月触頭制度が廃止となった。

教如上人の記念碑

 明治9年6月、本山寺務出張所が、当寺内に開設された。明治12年11月に当出張所を更に長崎に移転し、併せて外国布教所事務所を併置することになった。本山寺務所出張所は、開設以来3年半余にして閉鎖された。

 昭和20年6月19日夜、博多大空襲により戦災を被り本堂庫裡を始め、諸堂ことごとく焼土と化した。昭和22年4月都市復興計画法の施行に依り、境内全域は公園緑地の指定を受けたので移転を余儀なくされた(現在の冷泉公園)。そのために移転する適地の物色に10数年の歳月を費やし、昭和36年3月現在地を確保した。爾来20年余を経過して本堂庫裡等の諸堂の建立と境内整備を終えた。

 昭和58年4月24日、御法主台下御裏方様をお迎えして、台下御親修の下に、「教如上人350回忌法要」「妙行寺開創500年記念法要」また御法主台下御染筆「教如上人御遺跡」の彰徳碑の序幕法要を厳修した。法要後、御法主台下の御親教を聴聞した。

 平成17年3月20日、福岡県西方沖地震により本堂を中心に甚大な被害を受けた。 御門徒の皆様の御尽力により復興し、平成19年5月26日、「本堂諸堂震災復興落成慶讃法要」を厳修した。